2016年12月09日

☀:☁ 初冬の小春日


【酔駄言】 20>24>22℃/74>57>64%/0mm/25mh : 初冬の小春日

 朝一に病院で眼科再診、視野検査の結果、ドクターは車に乗ってませんね? 更新せず期限切れというとそれはよかったと。とても車を運転できる視力でない、後10年の85歳までは目が見えるだろうが90才までは持たない? そんな長生きの自信はあろません・・・


 ◆なぜ?自信過剰の高齢ドライバー 衝撃データ…老いるほど強気「自分は大丈夫」

     
     安全運転に自信があると答えた割合。年を重ねるごとに自信を持つ高齢者が増える


 自らの老いを認めたくないのか、それとも、本当に腕に自信があるのか−。高齢ドライバーによる事故が相次ぎ、社会問題となる中で、「自分は大丈夫だ」と自信を持つ高齢者が、年を重ねるごとに増えるとする衝撃のデータがあるのをご存じだろうか。

 60代、70代で5割、80代では6割を超える。一方で家族は運転能力の衰えを懸念し、意識の「ギャップ」は鮮明になっている。公共交通機関が手薄な地域では、生活の足として車が欠かせない現実も存在する。高齢ドライバーの対策は待ったなしだ。


                      続きはこちらをクリック
 (12/9 産経新聞)

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2016年12月08日

高齢者 運転上手

高齢者 運転が上手
沖縄の高齢者事故は3年連続で全国最少!

          

 65歳以上の高齢運転者による人身事故について、2015年に沖縄県内で発生した全人身事故件数に占める高齢運転者事故件数の構成率が全国で最も低いことが7日、わかった。

 県議会代表質問で池田克史県警本部長が山内末子氏(おきなわ)に答弁した。県警によると、県内の高齢運転者による人身事故件数の構成率は、2013年が12・8%、14年が14・5%、15年が15・4%、そして今年10月末現在は16・5%で、いずれも全国平均値に3ポイント以上の差をつけており、全国順位は3年連続47位。

 県警交通企画課は「沖縄は車社会なので、高齢者も運転に慣れているかもしれない」と指摘した。
(12/8 琉球新報)





【酔駄言】☀>☁ 18>23>21℃/66>64>68%/0mm/15mh : 今冬初めての18℃、重ね着で凌ぐ

 高齢者の自動車事故が連発している。ほとんどは加齢によるとっさの判断力の衰えでの操縦ミス、心身の疾患による意識の喪失も伺える。甚だしくは高速の逆走で進入ミスもあろうが、出口の間違いを途中でUターンするケースは、信じられない心理行動でボケが進行しているのだろう。

 単純ミスによる軽微な自損事故なら自業自得だが、暴走による人身事故で巻き添えの死者を出したら、自他・家族に取り返しのつかない悲劇となる。それが心神喪失による過失致死と判定され無罪、もしくは執行猶予などはとても納得がいかない。人を殺しているのに・・・

 ボクはかねがね粗暴運転を繰り返し自損事故を繰り返してきた。同乗した家内・息子や知人から何度も粗暴ぶりを指摘されてきた。だから移住の条件とし息子から運転免許の返納を強要された。移住計画では軽ワンボックスに家財道具を詰め込みフェリーで沖縄に行き、当初1年間は車で沖縄中を車中泊する案も考えた。

 しかし高齢者移住(70才)ということもあり、老いては息子に従えで車移住を諦め廃車にした。移住してからも免許証は所持していて、翌冬に来沖した友人とレンタカーで観光した。それが最後の運転歴で2ヶ月後の期限切れを更新しなかった。それが正解で低年金では車の保有は不可能だったしなぁ・・・


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2016年12月07日

雪のような白い花

雪のような白花
ブーゲンビレア真っ白に咲いた きょう大雪


 7日は二十四節気の一つ「大雪(たいせつ)」。暦の上では寒さが増し、北風が強まって本格的な冬の到来を感じさせるころという。嘉手納町では6日、降り積もった雪のように白いブーゲンビレアが咲いているのが見られた。


            降り積もった雪のように真っ白なブーゲンビレア(琉球新報画像)

 近所に住む宮平ユキさん(90)は「私の名前のように雪が降ったみたいね」と笑った。近くで働く会社員の上原俊さん(34)は「嘉手納の新名所になるように大切にしたい」と期待した。
(12/7 琉球新報)


 ブーゲンビリア(Bougainvillea)wiki −、オシロイバナ科ブーゲンビリア属に属する熱帯性の低木である。和名はイカダカズラ(筏葛)、ココノエカズラ(九重葛)である。花の色は赤から白まで変化に富み、ピンクやマゼンタ、紫、橙、黄のものもあるように見える。しかし、実際の花はいわゆる花の中央部にある小さな3つの白い部分である(写真では2つしか見えない)。色づいた花びらに見える部分は花を取り巻く葉(包葉)であり、通常3枚もしくは6枚ある。


                         (Wiki画像)

 大雪Wiki − 雪が激しく降り始めるころ。『暦便覧』では「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」と説明





【酔駄言】☀>☁ 19>22>19℃/62>66>64%/0mm/15mh : 明け方は合掛ふとんでも寒かった。最低気温が20℃を切ると二十四節気の「大雪」ではないが、沖縄は冬モードに入り衣類/寝具も合い物から、合い冬に入れ替えねばならない。しかし、日中はまだまだ春日で合い物で充分な気候。

 日中でも20℃を切ると冬物と暖房の出番、よもや沖縄で冬物のセーターやダウンに、暖房がいるとは思いもよらなかった。沖縄の冬は寒いと言うのは2冬目を迎えた移住者。それでも最低気温が15℃を下回ると、ウチナーでも寒いと言うが、室内では半Tで外出時にダウンを羽織るという。

 移住前に沖縄の冬の平均気温を調べたが、本土(阪神北)より10度以上も暖かく、冬物の衣類を処分して移住してきたのに・・・ 移住先の候補として国内では小笠原や鹿児島も調べた。小笠原は沖縄よりちょっと寒いし医療面でも諦めた。

 沖縄でも先島、とくに八重山諸島は沖縄本島より温かいが、石垣市には県立病院もあり医療福祉はまずまずだが、やはり県庁所在市の那覇には及ばない夏は暑すぎる。沖縄の隅々各地を数ヶ月単位で住んだ、10才年上の人が、老後の医療福祉面で那覇に定住したという。

 彼の言うことが正解だった。10才も若く元気だった移住当初から5年を経て、後期高齢者になった途端に生まれた初めての入院。那覇には国立・県立や市立・大学病院や赤十字/県医療生協もあり、幸い近くの赤十字病院に入院でき回復途上だ。高齢者にとって医療・福祉・介護環境は必須の条件だろう。


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2016年12月06日

「壺屋の村」サイト

「壺屋の村」サイトの紹介
沖縄の魅力と歴史−琉球の焼物の歴史−壺屋の村


 トップページには、「このサイトは、沖縄の魅力を探り「沖縄のことを知りたい」と考えている方々の為、沖縄の姿を紹介すページです。」

 「沖縄の歴史は、宿命的で過酷なものがあり、暗いイメージがありますが、しかし、美しい自然は、沖縄人に純情で素朴な性格を与え、血縁関係の強い共同体意識のなかで独特の社会を形成してきました。」

 「そして、南方貿易や中国貿易で海外との交易を通し、すすんで外国の文化をとり入れ、世界に誇れる素晴らしい文化、独特の文化を築き上げ残しています。」とかかれている。

 コンテンツとして既述分が ・縄の歴史 ・沖縄の観光 ・沖縄の祭り ・沖縄の料理 ・沖縄のお土産 ・沖縄のシーサー ・沖縄の芸能 ・沖縄の信仰 ・沖縄の米軍基地 ・沖縄の年中行事 ・沖縄の御願 ・美海紀行 ・沖縄の屋根獅子 ・琉球の焼物の歴史 ・沖縄関係書籍 があり、さらに未述分として ・沖縄あまくま(あちらこちら) ・沖縄の写真 最近の沖縄ニュース ・沖縄の民謡 ・ 沖縄の県産品 ・沖縄の野草で手作酵素 ・ 創業予定の方へ ・プロフィール がメニューに掲げられている。

 作者はプロフィールが未述なので不明だが、・野草で手造り酵素 や ・創業予定の方へ という未述のコンテンツから察するに、事業を営んでいる方のように思える。

 この多彩で膨大なコンテンツのすべてを読んではいないが、中に興味を唆られたのが「焼物」と「シーサー」で、とくに「焼物の歴史」のサブコンテンツに『壺屋の村』があり、その詳細な記述に大いに感じ入った。

 ・沖縄の屋根獅子 には、 1.琉球の唐獅子 2.屋根獅子の起こり 3.屋根獅子の様式、形式 、素材 4.屋根獅子のつくり手及び分布と用法 の記述があり、4.には壺屋のことにも詳しく触れている。

 ・琉球の焼物の歴史では、1.土器時代 2.輸入陶磁器時代 3.琉球陶器時代 壷屋の村 近、現代沖縄の焼物 南蛮焼きについて が述べられていて、とくに「壺屋の村」の詳細さには感動した。

 作者のプロフィ〜ルは未述で不明だが、記述された内容の濃さは感嘆もので、その博学さには恐れ入る。長文なので全文を転載しかねるが、壺屋(焼)に関心がある方々はぜひ一読に値すると紹介した。





【酔駄言】☁ 21>22>20℃/84>68>82%/0mm/0mh : 日も出ず気温も上がらず風強し

 本文の ・沖縄の屋根獅子−4.屋根獅子のつくり手 に出てくる「カマニーグワァ(窯根小)は本家が窯根の高江洲家で、壺屋統合時のナナチネー(七つ家)という家系だ。高江洲姓は壺屋に多いが誰が本家であるか定かではない。育陶園の中堅陶工店舗がカマニーを名乗っているが・・・

 窯根の分家であろう壺屋与儀小の高江洲家の話が、あるサイトにこぼれ話として載っている;

 −日高妙子(旧姓 高江洲)は壷屋に1897(明治30)年、高江洲康宣の娘として生まれた。家は屋号を「壷屋与儀小」といい、屋敷の門が二つもあった壷屋の旧家である。往時は現在の(与儀公園前の)神原中学校から平和通り、ダイナハ付近にかけてまで実家の土地であったという。「球陽」に「壷屋与儀小」のことが記載されている。読谷の比謝橋が壊れたとき(架け替えのため)、銅銭16貫文を寄与し家譜を授与されたとある。いわゆるコーイユカッチュ(新参士族)の出だ。

 こういう話も伝わっている。飢えで集落中が苦しんでいたころ、「壷屋与儀小」では家の周辺を囲ってある石垣の上に、竹で編んだカゴの中に芋を入れておいた。腹が減った人は勝手にイモを取って食べなさいという意味からだ(壷屋陶器事業共同組合顧問 小橋川秀義談)。時代を彩った女たち p109(省略と抜粋)

 (広大な)ガーブー流域一帯が「壷屋与儀小」のものだったということだが、往時の地形をみると壺屋の村は、丘陵の傾斜面を利用して南に面してつくられ東西に細長く伸びていた。前面、つまり南に久茂地川の支流になっているガーブ川(現水上店舗)を見おろし、背後に安里川が流れ、東は真和志間切の丘陵地帯、西北に牧志村をひかえていた。村の前後(ガーブ川流域?今の平和通りから神里原一帯?と安里川流域)は殆んど沼地帯で、人家はなく別天地の観を呈していた。− とのこと


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2016年12月05日

キビ作業は島言葉で

キビ作業 豊かな島言葉
「タバイ」「マジン」「カリバー」「マルイー」 農家、土地と共に継ぐ


新品種(農研機構)
 サワサワサワ。ウージ(サトウキビ)の葉のすれる音が南城市に響く。昨年期に2万2千トンを収穫した同市では、およそ100人が畑で汗を流す。生活に密着した農作物だけに、作業にも、さまざまなしまくとぅばが残る。豊作という今期。農家は17日からの製糖期が待ち遠しい。

 「チューヤ、ナカムラケヌウージトーシ。アチャーヤ、トゥナイヌヤードー」(きょうは仲村家のサトウキビ収穫作業。あしたはお隣さんを手伝うんだよ)。南城市佐敷手登根の農業・仲村薫さん(65)の子ども時代。収穫期に母親のスミ子さん(97)が語った言葉だ。ご近所で助け合う「ユイマール」も盛んだった。

 収穫作業にもしまくとぅばはある。20−30本ほどをひとまとめにした束は「タバイ」。タバイを並べて横幅1・8メートルほどにし、6段に重ねたものは「マジン」だ。共通語混じりにイチマジンと言うと、一山といった意味だ。

 こ稲作が盛んだった同区。1962年のキューバ危機で砂糖が高騰すると田んぼは消え、サトウキビ生産が本格化した。仲村さんは8年ほど前、父親の故・良明さん=享年(94)=を世話するため、県外出張の多い仕事を辞めて畑を継いだ。

 収穫作業にもしまくとぅばはある。20−30本ほどをひとまとめにした束は「タバイ」。タバイを並べて横幅1・8メートルほどにし、6段に重ねたものは「マジン」だ。共通語混じりにイチマジンと言うと、一山といった意味だ。「あまり積み過ぎると、重くてトラックに上げられない。重さは800キロぐらいかな」製糖工場の搬入前に、カリバー(枯れ葉)を取ることも農家の仕事だ。

 一番の楽しみは搬入後、口座にお金が振り込まれたときだ。「シタイヒヤー。ウージェー、ユカトーッサー(やった。キビの収入は良かったな)」と喜んだ。およそ6千平方メートルで35トン前後を生産する仲村さん。台風が少なく、キビの成長時期には雨が降った今期。収穫は約40トンを見込む。

 先祖から伝わった農地。財産管理のために畑を耕す人も少なくない。手登根区の宮城富男さん(75)もその一人だ。「ぼくはサラランシーハルサー(やむを得ず、農業をしている人)」と、ひょうひょうと語る。約3900平方メートルほどで、およそ24トンを生産する。

 同区の土はアルカリ性がやや高く、サトウキビに適しているという。植え付けは3〜4月の春植え、9〜11月の夏植えに分かれる。サトウキビは、25センチほどに切って畝に置く。

 「アメー、トゥカグシ」。植え付け期の雨は10日に1度ほどでよいとの意味で、沖縄民謡にも歌われる。そうやって3週間ほどが過ぎると、芽は10センチほどに成長する。伸びてこない場所には、別のキビを置く。「マルイー」だ。専門用語では「間植」という。

 かつては不動産業を営み「ぼくは経理マン」と話す宮城さん。サトウキビ産業をみる目はシビアだ。規模にもよるが、キビ栽培は「リミヌネーラン(もうけはない)」と指摘。一方で「サトウキビ産業が弱くなると人のいなくなる島も出てくる。配慮が必要」と話す。

 高さ2〜3メートルに伸び、青々とした葉が美しい宮城さんのキビ畑。「捕らぬたぬきの皮算用はしない」と言うが豊作はうれしそうだ。
(12/4 沖縄タイムス)





【酔駄言】(☂>)☁ 22>25>23℃/93>88>82%/12.5mm/5mh : 夜来の☂が朝まででウェット

 島言葉に関心があるが文字でないと理解ができない。ウチナーグチで喋られたらお手上げだ。たとえウチナーヤマトグチの標準語? でも、発音というか抑揚が沖縄訛りで聞き取りにくい。たとえゆっくり喋ってもらっても聞き直しても・・・

 本編の記事のように島言葉を文字で書いて、説明も付けてくれれば判るし、語源も想像がつくのでありがたい。元の言葉は日本語でありそれが訛ったのであろう。つまり沖縄(琉球)人は「土人」でなく日本人だということだろう。

 北海道の鉄道地図旅で地名・駅名などがおもしろい。アイヌ語の発音を強引に日本語に当てはめている。漢字の地名・駅名は難読が多くユニークだ。しかし、日本語の沖縄(琉球)訛りのように、語源の想像がつかず異言語のように感じるなぁ・・・


posted by まな兵衛 at 11:48| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月04日

第九と交響曲「沖縄」

第九と交響曲「沖縄」
2002年 離島で町田フィルハーモニー交響楽団が第九を演奏

 年末の風物詩にもなっているベートーベンの「第九」。離島では、フル編成オーケストラで聴くことは難しい。かつて「離島の人たちにも第九を」と奔走した人がいた。音楽プロデューサーの故日暮怜司さんである。

 1965年に文化庁芸術祭奨励賞に輝いたLP盤16枚組「沖縄音楽総攬(そうらん)」を担当した人だ。復帰30周年を控える時期に、平良市(現宮古島市)の伊志嶺亮市長、石垣市の大浜長照市長から依頼を受けた。

 資金面をはじめ多大な苦労の末に2002年10月、荒谷俊治氏指揮の町田フィルハーモニー交響楽団と一流ソリストの両市訪問が実現。合唱は地元合唱団が担い、大きな感動を呼んだ。

 この演奏会のために、日暮さんの妻で作曲家の有馬礼子東京音楽大名誉教授がオーケストラ曲「宮古」「八重山」を3年がかりで作曲。それぞれの演奏会で初演された。

 後に作曲した「首里」と合わせ3楽章の交響曲「沖縄」となった。2004年に東京で初演された後、沖縄県に献呈することになり同年12月、当時の稲嶺恵一知事が楽譜を受け取った。県民の財産となって12年。2011年に県内で吹奏楽曲として披露されたが全曲の演奏はない。

 昨年7月、日暮さんは85歳で亡くなった。「オーケストラでやるのは大変ですから」と83歳の有馬さんは語る。沖縄で演奏されることを願う夫妻の望みがかなうことを祈りたい。
(12/3 琉球新報)


     ◆有馬礼子kukikei 

 日本人の女流作曲家で沖縄を題材交響曲を作曲したのは、沖縄県人の金井喜久子が有名だ;
     ◆金井喜久子kukikei
     ◆金井喜久子wiki
     ◆金井喜久子manabey





【酔駄言】☁:☀>☁>☂ 21>28>23℃/86>82>91%/6mm/10mh : 陽射しのある昼間は夏日

 北海道の留萌本線の留萌〜増毛間が本日で廃線となった。北海道の鉄道は札幌〜帯広しか乗ったことがない。それなのに無縁の路線を話題にするのは、@鉄道が好きなこと(地図鉄) Aローカル線好き(特に盲腸線) ここ数年間は内外の行き止まり盲腸線の終着駅シリーズを、暇にあかせてHP化していることもある。

 留萌〜増毛もその一つで何度も地図で訪ねた。この路線に限らず人口減少の閑散地を走る、ローカル線の地図旅は楽しくもあり悲しくもある。特に汽車通の高校生の足としての、廃線や廃駅は単純に廃止反対を鉄軌道のない沖縄から応援している。

 大阪の下町に生まれ育って高校も地元で徒走通、同級生はみんな汽車(電車)通でうらやましかったなぁ。私鉄王国の大阪(阪神)圏ではダイヤが過密で、電車の1〜2本遅れでも会社や学校に滑り込める。それが閑散地区のローカル線ではできない。

 1日で数本しか運行していない地方線では、乗り逃がすと間違いなく遅刻することになる。駅間が数Kmもある田舎で隣家までも数Kmでは、自転車で駅まで乗りつけ汽車を待つ。特に雪国の広大な農家の子どもは大変だ。

 最寄りの駅が廃止されれば、さらに数Km先か手前の駅まで行かねばならない。まして留萌線のように廃線となるとバスに頼らざるをえない。しかし、考えようではバスのほうが便利かもしれない。

 例えば留萌線では駅間が長く本数も少ないが、バスだと朝夕は30分間隔で運行されて、しかもJR駅間に2〜5ものバス停がある。これは通学・通勤者にとってありがたい。問題は吹雪による道路閉鎖で、列車は平気で運行される。

 増毛〜留萌手前の街には高校や病院はなく、止む得ず留萌まで通学・通院せざるを得ないが、バスはさらに数Km先の高校前・市民病院前にも止まってくれる。だからJRの利用者が減り廃線しても、沿線の住民はちっとも困らないということか・・・


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2016年12月03日

人口30人 大神島


人口30人 大神島
世帯数15、人口約30人で存続の危機にひんしている大神島

 大神島は宮古島の北東約4キロに位置する。祖神祭(ウヤガン)などの祭(さい)祀(し)に代表される「祈りの島」としても知られる。人口流失に歯止めが利かず、現在は最盛期だった1950年代の6分の1ほどだ。


 大神島の大浦高儀さん(69)=大神島出身=は島で唯一の食堂兼民宿「おぷゆう食堂」を営む。沖縄本島で勤めていた会社を退職後、親の介護で帰省した際に、高齢化が進む島の将来を危ぶみ食堂を始めた。「島を何とかしないといけない」との思いを抱き、伝統と魅力を残した上での存続を模索する。

 大浦さんは長年本島で会社勤めをしていた。退職後は本島で事業を立ち上げようとしたが、母の介護のために家族を残して島へ一時帰郷した。帰ってみると若者はほとんどおらず、将来的に存続が危ぶまれるほどになっていた。

 大浦さんは「島には何もなかった。定期船で来た観光客は水も飲めない。若い人のために島を活性化できる店が必要だと思った」と振り返る。大浦さんは2013年4月、廃校となった小中学校の教職員宿舎跡地を役所から買い取って「おぷゆう食堂」を開業した。

 島に関して誤った情報がインターネット上で流されていることを懸念し、島で初めてのホームページ(HP)を立ち上げた。旧暦1月から11月にかけて毎月開催されるウヤガンの際は、神事に携わる者以外は立ち入ることができない場所があることなどを周知した。

 大神自治会は島外の人が島の土地を購入することを禁止している。祭事を厳かに執り行うためだ。事実上、移住は許されていない。大浦さんは「それほど観光地化はしたくない。島の魅力は素朴で何もない点だ」と語る。

 小さな島では大規模に耕作できる土地はなく、自らも釣りに出て食材を確保する日々だ。大浦さんは数年後、家族が住む沖縄本島へ戻る予定だ。その時までに、島が自立していけるように環境整備を続ける。

 「食堂は島がなくならないように、若い人が協力して続けてくれればいい。島はこの先もなくならない。それは心配してはいない」島の行く末を案じつつ、次世代の若者に期待を抱く。
(12/3 琉球新報)


                  ◆大神島wiki




【酔駄言】☁>☁:☀ 21>25>22℃/72>79>88%/0mm/10mh : 日中は夏日で半T日和り

 今日は12月3日 "1・2・3" といえば、オールドPC世代は Lotus1-2-3 を思い出す。Windows が登場するまでのPC(MS)DOS時代は、Lotus と一太郎の全盛時代だった。事務処理をPCで処理する上で 123 と一太郎は欠かせぬ存在だった。123 Macro を作りまくったもんだ。

 そのうち Windows が出はじめたら、PC/OA担当の営業として売らねばならない。Windows3.1に入っていた表計算とワープロはおそまつだったが、Win.95で I.E.と Excel/Word が無償でバンドルされ、急速に普及したおかげで Lotus と一太郎は見向きもされなくなった。

 それまでPCアプリは各々のソフト会社が開発し、PC市場で覇を競っていたがマイクロソフトの無償バンドルのため、ほとんどすべてが市場から姿を消してしまった。市場を握った MS はその後に Windows/Excel/Word を有償化して儲けまくった。見事というか汚いというか・・・


posted by まな兵衛 at 12:28| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月02日

甲殻類最強ヤシガニ


甲殻類最強のヤシガニ
ヤシガニ、甲殻類 最強 挟む力はライオン級336キロ


「甲殻類最強」のはさみを持つヤシガニ
(一般財団法人 沖縄美ら島財団提供)
 沖縄県北部を分布の最北限とし、環境省のレッドデータブックで絶滅危惧2類に指定されているヤシガニのはさみの力は推測値で最大3300ニュートン(約336・5キロ)に及び、「甲殻類最強」であることが沖縄美ら島財団の研究で分かった。

 同数値はライオンのかむ力(約300キロ)にほぼ匹敵する。はさみの威力の実測値が明らかになったのは初めて。研究結果は財団が11月24日付で米科学誌「プロス・ワン」で発表した。
 研究チームは海洋博公園に生息する体重33グラムから2キロ超の野生のヤシガニ29匹を使い測定した。挟む威力の範囲は29・4〜1765ニュートンで、体の大きさに比例して増すことが判明。体重と力の関係から得られた計算式に当てはめると、これまでに発見された4キロ級のものでは336・5キロの威力を持つことが分かった。

 研究チーム主要メンバーの岡慎一郎さんは体の大きさに対する力の強さが他の生物と比較し飛び抜けて高いことに触れ「面白いデータを公表することで皆さんに興味を持ってもらい、絶滅危惧種の保全につなげたい」と語った。

 同研究チームは15年にはヤシガニの成長は非常に遅く、寿命は推定約50年であることを発表している。
(12/2 琉球新報)


               ◆ヤシガニwiki




【酔駄言】☁>☁>☀ 21>24>21℃/82>72>70%/0mm/10mh : 西日が射し込むと暑い

 昨夕の晩酌中にPCチェアが届いた。おまりに大きく重い(19kg)ので玄関外の廊下に置いて、今朝に開梱した。てっきり組み立てと思ったら完成品。やれありがたやと部屋に持ち込み、さっそく座り心地を試してみた。

 先ずは背もたれロッキング、背中を反らせると柔らかく後ろに倒せる、 OK OK! リクライニン角度はかなり大きく、任意のところで固定もできるし、柔らかさも調節可能。なにより背を倒しても座が連動しないのが良い。

 座を手前に引っ張り出せて奥行きも広げられるし、もちろん座高も39.5cmは短足にぴったり。下の写真で手前の黒いのが現役品だが、座高も高くて踵が浮くので疲れる。背を倒すと座も連動して前が上がるので、太ももを圧迫する。



 現役さんは座・背とも倍ぐらい分厚いが、F1ドライバー席を模したという座の凹凸が、痩せこけたお尻にフィットせず座り心地が悪い。中国製は日本の一流メーカー(ITOKI)の日本人の体格に合わないのだろう。

 このイトーキOSチェアは定価91,504、Amazon平価61,695を、在庫1点限りのプライム価格27,600で買った。実に約7割引きとは儲けもの。かってオフイス家具を企業・官庁に売っていたときには、イトーキ製品の仕切りは60%だったもんなぁ・・・


タグ:ヤシガニ
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2016年12月01日

とみぐすく/とみしろ

とみぐすくかとみしろか?
市は「とみぐすく」 警察、高校は「とみしろ」だけど…


 豊見城市は8〜10日、行政と住民がよりよいまちづくりについて意見交換する「協働のまち(都市)づくり懇談会」を実施した。(1)『トミグスク』と読んでもらうために「豊見城市の名称について}(以下一部省略)

 市の名称についての議題では、正式には「豊見城(とみぐすく)市」だが、「豊見城(とみぐすく)市立豊見城(とみしろ)小学校」「豊見城(とみぐすく)中学校」「豊見城(とみしろ)署」など、施設によって「とみぐすく」と「とみしろ」の読み方が混在している現状を紹介。

 歴史的には17世紀ごろから「とみぐすく」の読みが定着していたが、戦前の1940年ごろに発行された新聞などで「とみしろ」の振り仮名が付けられている事例も確認されているという。「とみしろ」の読みが一般的になったのは戦後で、66年に豊見城(とみしろ)高校が新設され、75年以降に故・栽弘義監督率いる野球部が甲子園で活躍したことが要因の一つだと考えられている。

 2002年の市制施行時に市の名称についての住民アンケートを実施した際は「とみぐすく」が29・1%、「とみしろ」が47・4%だったというが、歴史性などを考慮して「とみぐすく」を採用した。

 市民から「市の刊行物で全て読み仮名を付けるのはどうか」「施設名を『とみぐすく』に統一しては」「人から人に地道に伝えていくことも大切」などの意見が上がった。宜保市長は「どうすれば『とみぐすく』と読んでもらえるか。市としても努力しているが、頂いた意見も参考にしながら考えていきたい」と話した。
(11/28 琉球新報)





【酔駄言】☂ 21>23>20℃/82>85>88%/13mm/0mh : 夜来の☂が今も降り続いている

 沖縄で「城」と書いて『クスク』と読むことを知ったのは、約28年も前のことだった。つまり平成と年号が替わったころで、当時は外資の汎用ソフトパッケージ日本支社の、西日本支社に努めていたころの話だ。IBM(互換機)向けのオンライン開発ソフトに沖縄から引き合いがあった。

 沖縄では飛行機代が高いのでどうしようかと、日本支社長(日本法人社長)に相談したら、電話で商談を詰めテストで1回訪問、1週間後に電話で採否を聞き契約に持ち込む。契約で1回訪問で済むならOKという。しかし、沖縄は憧れの土地で商談難航という理由で何度も出張したもんだ。

 コンピュータセンターは浦添市の城間、空港からのタクシーで「しろま」というと、運転者は『ぐすくま』と読むんですよと。城はグスクと読むことを始めって知った次第。移住してから沖縄の地理・地名を勉強したら各地にグスクが多いことがわかった。

 地名では中城/北中城/豊見城などがある。また、(城)グスクは文字通り城郭(砦)であることも知った。前掲の各地にも城(グスク)があり「中ぐすくグスク」、「とみぐすくグスク」と『ぐすくグスク』と重ねて呼んでいる。戦後になってヤマト読みが増えてきたが地名は遺すべきだなぁ・・・


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2016年11月30日

この冬は薄ら寒い

この冬の沖縄は薄ら寒い
沖縄気象台が発表した3ヶ月予報では曇りや雨の日が多い



 今日で11月尽、明日から師走12月で冬の陣。この冬(2016/12〜2017/2)の沖縄の天気が気になる。沖縄気象台が先ほど発表した3ヶ月天気予報のよると、大陸からの寒気の影響で「平年に比べて曇りや雨の日が多い」と、あまり嬉しくない予報になっている。


 平年に比べてとか平年並みとはよく耳にするが、いったい平年の天気ってどんなんだろう? 気象台のPDFには参考データとして載っている。12月(の平均?)は18〜19℃/66〜122mm、1月は17℃/79〜122mm、2月は17〜18℃/67〜132mmとなっている。

 平均気温でなく各月の最低気温を知りたい。沖縄では15℃を下廻ると「寒い、サムイの大合唱」で、10℃を切ると県民は冬眠状態? たしか、今年の1月だったかには本島で初めて『雪』が降った! この時はテレビや新聞は大騒ぎだったなぁ・・・


                ◆沖縄地方の3ヶ月予報PDF




【酔駄言】☁:☀>☁ 19>25>23℃/65>64>76%/0mm/15mh : 今夜から明日いっぱい雨模様

 今日、神奈川の息子から細長い1mほどの筒が届いた。筒の片側を開けると「杖」が出てきたので、脚の弱った父親に杖をつけというのかと憤慨した。最近は通院処方薬の治療の甲斐があって、息切れもお足の疲労も改善していて、以前の体力を取り戻しつつあるというのに。

 筒がまだ重いので反対側を開くともう1本、説明書を読むとトレッキングポールとある。山歩きや平地のウォーキングでもよく見る、スポーツスティックだった。そうなんだ、この歩行アシストポールを使い歩るき廻れということらしい。よっしゃ病院通いに与儀公園を横切るときに使おう。

 晩秋/初冬の与儀公園を背を伸ばし歩幅を拡げ、さっそうとウォーキングする姿を想像している。2週間に1度の通院の帰路に緑豊かな公園を、調子が良ければ2周以上し図書館やスーパーにも寄りたいもんだ。さっそく明日の通院にもと思ったが、今夜から明日いっぱいは雨の予報で諦めた。


posted by まな兵衛 at 13:34| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

立ちしょんXせんべろ

立ちしょん無用「せんべろ」界隈
街グワァのトイレ問題 広報「なは」1面に特集!


 11/15のブログで牧志公設市場の周辺に密集する、飲み屋街「せんべろ横丁」のことを書いた。課題として周辺のトイレ不足が問題視されているが、広報「なは12月号の第1面にデカデカと取り上げられている。

 紙面には「街ぐわーにトイレが足りない」、「トイレは街の資産」などの記事のほか、「那覇街ぐわートイレマップ」も掲載されている。千円でベロベロに酔っぱらえるという酔客だけでなく、観光名所である牧志公設市場ややちむん通りを訪れる、観光客へもPRする必要がありそうだ。


     ◆詳細は広報「なは」12月号第1面のPDFはこちらからをおよみください。




【酔駄言】☀ 19>23>18℃/86>64>64%/0mm/50mh : 久しぶりの☀ 快適な一日

 Amazonでオフィス(PC)チェアを買った、明日あたりに配達されるだろう。移住以来PCチェアには悩ませられている。6年で5脚も買っては壊れたり、座り心地が悪く廃棄にしたり知人に譲ったり。なにしろ一つの椅子でPC用と食事用と晩酌TV用に使っている。

 そんな多用途に使う椅子に求められるのは、座高が40cm未満(足が短い)で、背もたれロッキング角度が大きく柔らかい椅子だ。背伸びリフレッシュが可能でリクライニング角度が固定できること。ロッキングは座が連動せずヒダ裏を圧迫しないことが必須だ。

 今回はそれまでの中国製の安物(それでも2万円以上)を避けて、国産オフイス家具トップメーカーのイトーキを選んだ。値段はさすがに1万円以上も高いが。Amazonタイムプライス特価で3万円以内でゲット。ITOKIブランドの定評のあるロッキング機構に期待をしているが・・・


posted by まな兵衛 at 12:27| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月28日

天国 浜辺のカレー屋

天国! 浜辺のカレー屋
新原(みーばる)ビーチ」近くにあるネパール料理店「食堂かりか」


 「食堂かりか」は、沖縄県南城市の「新原(みーばる)ビーチ」近くにあるネパール料理店。砂浜にテーブルとベンチが置かれ、青い海を目の前にしながら食事ができるという店である。
                沖縄南部の青い海が目の前に
 海と反対側にお店の建物があり、そこでオーダーをして、でき上がり次第、席まで料理を運んでもらえるスタイルだ。

 メニューには、「チキンカレー」、「豆カレー」、「キーマカレー」、「ポークカレー」、「ほうれん草&エビカレー」、「マトンカレー」といったカレーと、「サモサ」やネパールの蒸し餃子である「モモ」などのサイドディッシュが並ぶ。ドリンク類はチャイやラッシーのほか、アルコールも取り揃い、「オリオン生ビール」、泡盛、ワイン、ラム、カクテルなどを飲むことができる。

 「うーむ、天国!]
 2匹の犬を連れてやってきたご家族にお話を聞くと「近くに住んでるんですけど、今日初めて来ました。なんで今まで来なかったんでしょうね。こんなに良いところがあるんですね」と言う。

 「新原ビーチ」は、およそ2キロほど続く砂浜のある自然のままのビーチだが、沖縄の海水浴場というと中北部方面に人気が集まっており、南部の新原はどちらかというと穴場のようだ。
(11/3 exciteニュース)


 :本文と写真が多いのでオリジナルの記事をおよみください。




【酔駄言】☁ 21>22>19℃/86>64>64%/0mm/0mh : 終日☁で気温上がらず薄ら寒い1日

 みーばる(新原)ビーチには移住前と移住後に行った。移住前は終の棲家候補の壺屋の下見で、ついでに首里城に行ったとき、ゆいレールの駅前でたむろしていたタクシーに、首里城をぐるりと一周してもらうつもりが、なぜか東海岸のビーチに変更となり、運転手のマイカー(5千円)でガイドしてもらった。

 ビーチの入り口や周辺には「新原」の表示で、南北に長〜いビーチだったが海は濁っていた。でも11月の終わりだというのに泳いでいる外人の親子がいた。夏日とは言え晩秋のどんより天気で、沖縄イメージの青い空蒼い海の印象ではなかったなぁ・・・

 2度目は移住して翌年の6月に行った。琉球新報歴史バス講座「あがりうまーい(東り御廻り)に申し込み、せいふぁー(斎場)御嶽などを巡って、新原ビーチの外れにある歴史遺跡を周り海岸へ出た。時は6月ですでに真夏日の快晴。文字通りの青い空蒼い海のビーチを堪能した。

 1度目の運転手も2度目の講師も何度も「◯◯ばる」と言うが聞き取れず、その後に『みーばる』と読むことを知った。そう言えば最近は風が冷たく体感温度が寒いが、この季節風である北風を『みーにし』という。北風が吹き始めた「新」を『みー』、北は沖縄では『にし』なので「みーにし」ということだ。


posted by まな兵衛 at 11:21| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月27日

沖縄おもしろカルタ

沖縄おもしろカルタ
『沖縄おもしろカルタ』が、名前に偽りなく本当に"おもしろ"かった

 カルタの作者は、沖縄の琉球張子作家・豊永盛人さん。2008年、「島言葉の日」(9月18日)に合わせて沖縄県立美術館で行うイベントで、「沖縄の言葉」をテーマに何か作品を…と依頼を受けて展示用に作った作品だった。
 読み札は沖縄の人なら若い人でもわかるようなライトなものを選んだ。古い言葉の素晴らしさを伝えるというより、ニュアンスを残すことを大切に、とにかく楽しめるものを作りたいなぁ」と豊永さん。

 沖縄のカルタとして核になるのは『と』(とーとーめーからみるけしき)。"とーとーめー"とは一家が入る位牌のことで、沖縄ならではのもの。玄関を入ったところに"とーとーめー"があり、その中から家族を見ているというイメージです。とにかく空気感を大切に、こんな場面で沖縄の言葉を使ったら楽しいかなと思っています」。

 たとえば『ま』は、まぎーまやーのいるまちやー

 まぎー=大きい、まやー=猫で、訳は大きな猫のいる商店街。この札のおもしろさは解説文にあり。「沖縄の猫はビックリするほど大きく、商店街はビックリするほど薄暗いです」。
(11/27 exciteニュース)


 :本文と写真が多いのでオリジナルの記事をおよみください。




【酔駄言】☂ 23>22>20℃/72>92>86%/28mm/0mh : ☂が降り続き気温は下がって薄ら寒い

 沖縄おもしろカルタは確かにおもしろいが、子どもに島言葉を浸透させるにはどうかな。3世代同居の家庭なら祖父・祖母が、島言葉をかろうじて話すこともあろう。したがって孫も聞きながら育ったことだろうけど、祖父母と言ってもせいぜい60才台で戦後世代だし。

 まして核家族化が進んで今の父母は標準語だろう。島言葉の沖縄方言は遺さねばならない。現に八重山や奄美の方言は絶滅視されている。一方、島言葉運動で推奨されているウチナーグチは首里・那覇系で、本島でも北部や中部・南部とでは異なっているという。

 町民会の役員会では一応は標準語だったが、イントネーションというのか発音の抑揚がなまっていて、ほとんど意味がわからなかった。まして会議後の懇談(飲み会)ではウチナー標準語が飛び交い、まったく理解ができずに疎外感を味わった。ちなみに役員の平均年齢は65歳を超えていたなぁ・・・


posted by まな兵衛 at 12:23| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月26日

ネコ店長 国際的人気

「ネコ店長」国際的人気
「言葉の壁ニャイから」 ネコ店長、国際的人気 那覇平和通り


店を訪れた観光客に「お手」で“接客”するネコ店長のみーちゃん

 那覇市の平和通りでタオルや衣料品を販売する嘉数商会には、お客さんを癒やす“ネコ店長”たちがいる。人気は世界レベル。韓国の旅行雑誌に取り上げられ、世界各国の言語で店長たちの説明書きが寄せられるほどだ。本物の店長である嘉数信太郎さん(51)は「猫がいると海外の人も寄ってくる。猫に言葉の壁はないよ」と感心する。

 ネコ店長の名はみーちゃん。地域猫だったが5年前から嘉数商会に居着くようになった。今では、店の前の定位置にどっしりと構え“店番”する。嘉数さんの合図でお客さんに「お手」や「ハイタッチ」をするなど、接客も大得意だ。副店長のキッチーにはニコちゃんマークに見えるような模様が横腹にあるのが特徴だ。

 嘉数さんのいとこで一緒に店を切り盛りする嘉数綾乃さんによると、3年前に“猫さらい”に遭ったせいか少しシャイで警戒心が強いが、店番はしっかりと務めている。イラストが得意な綾乃さんが描いたみーちゃんたちの似顔絵付きタオルやトートバッグも販売しており好評だ。

 以前、たまたま通りかかった台湾人観光客が、店にあったみーちゃんの紹介文を台湾語に翻訳。その後通りかかった知り合いに依頼するなどし、スペイン語、ポルトガル語などと増え、紹介文は10カ国語に翻訳されている。

 店の前を通る中国人観光客も「マオ(猫)」と呼んで頭をなでる。綾乃さんは「みーちゃんたちは本当にかわいい」と笑顔。嘉数さんは「通りの活性化にも貢献している」と話し、2匹を“猫かわいがり”している。
(11/26 琉球新報)





【酔駄言】☁ 19>25>24℃/70>65>68%/0mm/20mh : ☁だが湿度は低く夏日も爽やか

 伝えたい沖縄の話題が見つからず3日ほどジャズのネタを、ダラダラと本文と戯言にも書いたが本文の終戦後アメリカ世の話はともかく、酔に任せて駄言に書き連ねた昔話はくどかった? 読者から「本文と付け足しは別の話題を!」とおしかりを受けた。まぁ、そのとおりやなぁ〜 ジャズに興味のない人は3日もジャズじゃぶ浸けで面白くなかったでしょう。

 昨夕から冷え込んできて今朝は夏布団では寒かった。昼前まで半Tシャツに長袖BDシャツを重ね着。お昼前には流石に夏日で半T姿に戻したが、明日の朝も22℃の予報で念のため衣替えをした。と言っても冬物でなく合い物の長Tや長ポロにジャージなどなど。

 沖縄の3ヶ月予報によると12〜2月は曇天が多くて、平年よりやゝ気温は低めとのこと。しかし、平年の気温を知らないので去年の天気を調べたら、12月は大晦日まで15/20℃と合い物の日和り。1〜2月はさすがに10/15℃の日もあったがだいたい15/20℃。

 移住前(2010)のブログを読み返すと、11月には灯油ストーブを炊いていたし、12〜2月には積雪も何度もあった。それに比べれば南国の沖縄は暖かいはずだが、ひと冬を経験すると二冬目には寒い寒いと、まさかの暖房機やダウンジャケとを買った。沖縄の冬は寒いでっせぇ〜


タグ:ネコ店長
posted by まな兵衛 at 11:58| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月25日

アメリカ世ジャズ(3)

アメリカ世でジャズが(3)
沖縄ジャズの戦後史-江利チエミも来沖した


Vo.江利チエミ(年月不明:ラッカークラブ)
(沖縄Jazz協会記念誌)
 1952(S52)年以降は米軍キャンプで演奏をするバンドも増えてきた。それは(朝鮮動乱による沖縄の米軍基地が増強され)米軍の予算内から兵士への慰安へも配分され、将校から下士官・兵員向けのクラブは、バンドとの契約金が認められたからである。

 バンドの演奏料は本土復帰前には時給で、1ドル10セント/人だったという。(ジャズメンの収入は教員の10倍以上だったという)

 (増強された)キャンプは20余に達しそれぞれにクラブが設置され、基地クラブ専属の契約ハウスバンドも増えた。そんな常設フルバンドに加えて小編成のコンボが、マリーン(海兵隊)クラブやネービー(海軍)クラブを巡回していた。

 一方、(那覇は最初に開放された壺屋・牧志を中心に繁華街が形成され)桜坂から神里原にかけてキャバレーやクラブが次々に開店し、中心部の丸金デパートにはダンスホールができ、ホールでは高校ブラバンOBを中心とする若いバンドが演奏の場を与えられていた。(終わり)



 米軍キャンプのクラブによってもたらされた沖縄のジャズは、揺籃期のスイート&ダンスバンド時代を経て、米軍慰問のため来日したエリントンやプロバンドに刺激され、新しいジャズを模索しはじめた。基地内では「飲んで、踊って楽しむ」バンドから、兵士・黒人クラブではアドリブが求められた。

 そういったレベルアップの要求に応えるべく、若いジャズメンらはプロの演奏やレコードを耳で聞き覚え、新しいスタイルの習得という発展期を迎えたのである。沖縄のジャズは米軍基地からはじまり学び、米兵の要求により進化をなしとげたのである。




【酔駄言】☀>☁ 18>22>20℃/70>65>68/0mm/20mh : 室温が25℃を切り半Tでは涼しい
 ボクがジャズに目覚めたのは高2(1958/S32年)のときだった。先輩に「BGとGM、どっちが好きや?」と聞かれた。「なんですか、BGとかGMは?」と聞き返したら、「ベニー・グッドマンとグレン・ミラー知らんかったん!」。名前だけは知っていたがラジオで聴いたことがなかった。

 すの年の秋に映画「グレン・ミラー物語」がかかりさっそく観に行った。感動した! 物語もさることながら音楽に衝撃を受けた。ビッグバンドの楽器編成も珍しかったし、一糸みだれぬアンサンブルの斬新なサウンド。そしてソロのメロディーは後で先輩にアドリブと教えてもらった。

 これがスイングジャズなのか! 普段ブラバンで練習している2拍子のマーチと違って、4拍子のビートに乗って躍動する音楽。こんな楽しい音楽を演奏したいと思ったが高校のブラバンにはサックスがないし、第一フルバンドより小さく偏った編成では不可能だったなぁ・・・


posted by まな兵衛 at 14:18| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月24日

アメリカ世でジャズ(2)

アメリカ世でジャズが(2)
沖縄ジャズの戦後史-エリントンも軍慰問に来沖した



ハーバービュー将校クラブ公演のチケット(1970/1/24)
(沖縄Jazz協会記念誌)
 沖縄の戦後初期の復興期(1945〜1947年)は、すべて米軍の補給に頼る空白時代であった。人々は毎日の様に食生活に追われ配給の食料品で、どうにか暮らしを支えていた状態であったが、その内に米軍の莫大な払い下げ物資が民間に流れ出した。その中には相当数の中古楽器も含まれていた。

 これらの中古楽器はおとんどが破損していて、当然ながら使い物ならないものばかりだった。それらの壊れた楽器を寄せ集めパーツを継ぎ足すことで、なんとか音の出る状態に再生していた。学校教育でもブラスバンドを渇望していたが、寄せ集めの中古再生楽器だけでは、とうていまともなバンド編成はできなかった。

 一方、民間の若い世代の間に新しい軽音楽の、バンドを結成する動きが出はじめだした。その中からプロとして正式に登場したのは、弦楽器に金管をプラスしたタンゴ・バンド「南の星」であった。民間のプロバンドとして初めて米軍基地クラブのステージに立った第1号である。

 場所はカデナベースのグリフィン野外劇場で、将兵300人を前に堂々と演奏を披露し大喝采を受けた。出演料は段ボール箱に詰め込まれたラッキーストライクだった。当時は珍しかった煙草は民間市場で高く売れ、バンドメンバーのギャラとして配分されたことであろう。

 戦後から10年は基地の強化のため、民間人の労働力は基地に依存していた。また米軍放出物資も多量に民間に供給された。この過渡期(1946〜48年)では配給制度が続いていた。その後は米軍の通貨(軍票)としてB円(1945〜58年)が発行され、さらにドル時代(1958〜)を迎える。この間は沖縄ジャズの揺籃期ではあった。





【酔駄言】☁ 20>21>19℃/90>76>74%/3.5mm/0mh : 曇天で気温上がらず薄ら寒い晩秋

 ボクがブラバンをはじめたたのは1952(S31)年の工高1年で、なぜか吹奏楽部ではなく音楽部というクラブだった。入学式当日の最初のホームルームで中学時代の部活歴を書かされ、1時間後に柔道部のこわ〜い猛者が来て道場に強制連行! 帰宅し親にねだって新しい柔道着を買ってもらい、翌日の放課後に道場へ行くと木製のロッカーが与えられた。それは扉はあったが丁番が1ヶ所はずれていて鍵の金具もなかった。

 練習を終え道着をロッカーに入れて帰宅した。翌日の放課後に道場に行くとロッカーは開いていて、新品の道着が影も形もない。部長に訴えると「鍵かけへんからや」、そんなアホな! ということで1日でやめてしまった。数日後に同級生に「ブラバンせーへん?」と誘われて音楽部に行った。

 音楽部の練習をしばらく見学して休憩時間に部長の面接。すでに入学から数日が過ぎていて新入部員で数少くない空き楽器は埋まっていた。「入れたりたいけど楽器がないねん、しやけんど同んなじ科(木材工芸科)やしなぁ・・・ しゃーないボクの楽器を使いーなぁ、ボクは指揮に専念するよって・・・」

 与えられた楽器は塗装が剥げて地金の真鍮色のオンボロ。そういえば数少ない練習中のメンバーの楽器も、年代物のハゲチョロばかりが目立っていた。後で聞いたら音楽部の予算は年間に1万数千円で、新しい楽器は数年間も貯めてしか買えないとか。いまある楽器は10年近く前の払下げとという・・・

 部員はたしか10余名で3年x3/2年x5/既入部1年x7だった。編成は記憶をたどるとClx4/Hnx1/Tpx1/Tbx1/Epx1/Bsx2/Drx2だったように思う。木管はPi/Fl/Sxがなくスゴくいびつな編成で、とてもじゃないがハーモニックなアンサンブルを奏でることはできないが、入部の当初はそんなことも判らずうれしかった。

 与えられた楽器(バリトン=Ep:後のユーフォニウムの細管)を、練習場所の音楽教室から離れた一般教室で先輩の指導もなく独りで練習をはじめた。音出し・ロングトーンから音階。なんとか音階が吹けるようになったらいきなり楽譜を渡された。間もなくお呼ばれで小学校の運動会で演奏する曲だという。

 曲は忘れもしない行進曲「ワシントン・ポスト(スーザ)」で、冒頭から半音階の臨時記号で上下するイントロからはじまる。楽器経験は小・中学時代に齧ったハーモニカしかない。もちろん半音のないありきたりの楽器で半音とか臨時号(#/b)は知らない。それでも数日後にはなんとか吹けるようになった!

 そして合奏練習に参加を許され数曲を吹けるようになった。数日後の日曜日に市内(大阪)の小学校に出張したが、前日の練習後には全員で(金管)楽器の真鍮磨き。塗装が禿げたラッパは見事にピカピカになったなぁ。当時の移動は環状線で裸の楽器を電車で運んだもんだ・・・(酔っ払ってキリがないのでオシマイ)


posted by まな兵衛 at 16:28| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月23日

アメリカ世でジャズ(1)

アメリカ世でジャズが(1)
沖縄ジャズの戦後史-それはアメリカ世からはじまった



兼村寛俊とリズムキングス(1953/11 コカナーバクラブ)
前中:Vo:与世山澄子(沖縄Jazz協会記念誌)
 昨日のブログで取り上げた「アメリカ世のモーテル」からの連想で、沖縄のジャズが戦後のアメリカ世から始まったことを思い出した。そこで沖縄Jazz協会結成50周年記念誌の第1章に掲載されている、「沖縄ジャズの歩み」(渡嘉敷唯夫:ジャズ評論家)から、戦後初期の米軍基地クラブでのジャズバンド創世記を抜き出した(文章一部改変、文中の人名は割愛)。

 沖縄でのジャズは日本本土の明治後期からはじまったことと違い、戦後の米軍統治時代の基地クラブの需要によりはじまった。当初は戦前からのクラシック洋楽器経験者らによる、幼稚なポピュラーソングの模倣からスタートしたとある;

 これまで沖縄ではジャズに縁遠い音樂であった。それが、あの沖縄戦で焦土と化した荒廃の中から、駐留米軍よりもたらされた基地経済に付随する、兵士慰労のためのエンターテインメントとして、音楽演奏の需要が県民にもチャンスをもたらした。

 戦後間もない1948(昭和23)年に那覇で産声を上げたバンドがある。焼け野原からやっと立ち直ったころで、電気も水道もままならないという状態では、洋楽器は米軍の払い下げはあっても手に入れることは容易ではなかった。そんな中で一つのアマチュアバンドが細々と産声を挙げた。

 ある日のこと伝手により天願の米軍補給部隊の、基地家族クリスマスパーティの演奏に呼ばれた。戦後の沖縄バンド史上で第1号とされている。だれ一人満足に楽器を吹ける人がいなかった。渡された譜面はアチラの英語のポップスばかりで、連日の特訓練習でなんとか3曲が吹けるようになった。「聖しこの夜」と「ジングルベル」などだったという。


(注)本文の筆者である渡嘉敷氏は昭和1桁生まれで、当時(1946〜48年)はカデナの米軍補給隊に勤め、楽器・レコード・ラジオ類の在庫管理を任されていた。上掲写真の兼村氏(Pf:後列右端)の求めに応じ、基地の中古ピアノを譲渡した事があるという。




【酔駄言】(☂>)☁:☂ 22>23>22℃/76>88>90%/85mm/0mh : 終日ショボショボとウェット

 沖縄にも戦前はジャズを齧っていた人がいただろう。沖縄人は音樂好きの民族で、古来の琉歌の源流のオモロも歌う詩歌であったし、琉球王国時代も琉歌の俗謡も歌三線に集約された。明治以降の音楽事情は知らないが、米軍の上陸後に収容所で缶詰空き缶三線(カンカラ三線が大活躍したという。

 西洋音樂は戦前から導入されいただろうが、軽音楽は沖縄でも敵性音楽として禁じられてのだろう。したがって本格的な軽音楽を県民が耳にするのは、終戦後の米軍基地から流布されてからであろう。米軍キャンプの兵士慰労の娯楽として、ポピュラー演奏者の需要増が県民にもチャンスが与えられた。

 戦後の数年間に高校では米軍放出の中古の、吹奏楽器でブラスバンドがはじまったが、米軍キャンプのバンド需要に応えるため、現役の高校ブラバン生がかき集められ、楽器を吹くマネてよいというエキストラとして雇われたという。彼らの多くはギャラの良い米軍キャンプで腕を磨きプロとなった。

 ボクも高校のブラバン時代に先輩に誘われ、大阪で隆盛を極めたキャバレーにトラで出演した。沖縄と一緒でバンドの契約は頭数が求められ、楽器を構えて吹くマネをしたもんだ。もちろん音は出さんといてな! といわれたが? 休憩時間の食事は豪華でバイト代もよかったなぁ・・・


posted by まな兵衛 at 16:49| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

アメリカ世のモーテル

アメリカ世のモーテル
沖縄で70年代のアメリカに泊まる-"SPICE MOTEL OKINAWA"


SPICE MOTEL OKINAWAウェブサイトより

 1970年代に建てられた「自動車ホテル」が、大改装を経て、アメリカのロードムービーから抜け出したような「SPICE MOTEL OKINAWA」に生まれ変わった。

 1972年まで、沖縄は“アメリカ”だった。「アメリカ世(ユー)」と言われたその時代、沖縄の人びとは円ではなくドルを使い、本土へ渡るときにはパスポートを携帯した。27年続いたその「世」からやがて半世紀。いまなお沖縄の風景には、当時の残り香のようなものが漂っている。なかでも地元で「中部」と呼ばれるエリアは、その香りが濃厚だ。

 かつて夜な夜な米兵であふれ返り、一晩で家が一軒建つほど売り上げた店もあったという伝説をもつストリート。もとはアメリカ人専用の商業施設だったショッピングセンター。「コザ」と、今もときどき昔の名前で呼ばれる沖縄市とその周辺地域には、沖縄がアメリカだった頃の“名残”がまだ多く残っている。
(11月21日 朝日新聞 e-Travel)

 築40年以上になる「自動車ホテル」をフルリノベーションして、アジアや欧米の観光客にも人気のホテルに再生した "SPICE MOTEL OKINAWA" の記事を紹介する;

                 "SPICE MOTEL OKINAWA記事
                  同上ウェブサイト





【酔駄言】☀>☁ 22>27>24℃/86>75>78%/0mm/45mh : 日中は湿度が下がり爽やかな一日

 沖縄戦後から本土復帰までの米軍統治時代を「アメリカ世(ユー)」という。その間の歴史は沖縄県史や那覇市史でざっと読んだが、県民の暮らしぶりにはほとんど触れていない。生の庶民の生活は小説を乱読して知識を得た。とくに戦果と称する基地からの奪略品を、売りさばくアウトローな人々の話が印象に残っている。

 当時の県民の生活は米軍基地に依存していて、通貨もドルやB円であり米兵相手のショップに出入りし、オキナワン・イングリッシュを駆使し、アメリカンナイズされた生活を送っていた。つまり車社会とバーガー食生活が県民の健康生活に悪影響を残しているということだろう。

 県民の65歳未満の死亡率が全国1というのも、アメリカ世のなせる結果であるともいう。加えて本土復帰後に目覚めた沖縄料理ブームも一因であろう。そんな男どもの暴飲暴食を支えた女性の粗食が、平均寿命で全国トップクラスで、男性の長寿率の凋落ぶりがアメリカ世に起因していたのでは・・・


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2016年11月21日

夢の沖縄移住生活

夢の沖縄移住生活
8割は本土へ戻る、生活コスト高く地元住民とトラブルも


 近年、東京など都市部での暮らしに見切りをつけ、地方に移り住む「地方移住」が人気を集めている。低成長時代を迎え、お金を稼ぐことより自然と触れ合う人間らしい生活を重視する人が増えたことや、人口減少に頭を悩ませる地方自治体による手厚い地方移住支援などが背景にある。

 毎日新聞とNHK、明治大学地域ガバナンス論研究室の共同調査によれば、2014年度の地方移住者は09年度にくらべて4倍以上に増えたという。また、地方移住や田舎暮らしの各人気調査で上位となっているのは、長野、山梨、静岡などだが、Jタウン研究所が15年に「あなたが住みたい『都道府県』はどこ?」というテーマで行ったアンケートでは、沖縄が2位にランクインしている。「亜熱帯地方特有の美しい海と自然に囲まれながら、スローライフを送りたい」というのが、人気の理由のようだ。

 しかし、地方に移住すれば誰もが平穏な日常を約束されるわけではない。特に、沖縄の場合は地域社会になじめず、逆にストレスが増して本土に戻る人も少なくないという。沖縄の最低賃金、県民所得は全国最下位だ。

 1万人以上の沖縄移住者を支援し、本土に戻るサポートも行っている沖縄移住支援センター代表の阿部由明氏は「移住者の8割は、3年以内に本土に戻ります」と定住の難しさを語る。

 総務省の「住民基本台帳人口移動報告」によれば、15年の沖縄への転入者数は2万5441人で、転出者数は2万5425人。この全員が移住者ではないとしても、転入者とほぼ同数の人たちが県外に流出しているわけだ。

 なぜ、こんな現象が起きているのか。そこには、まず沖縄の経済的な問題がある。沖縄の最低賃金は714円で、内閣府経済社会総合研究所の「平成 25 年度県民経済計算について」によれば、1人当たり県民所得は約210万円。これはともに全国最下位であり、1人当たり県民所得は全国トップの東京都の約451万円の半分以下だ。完全失業率も全国トップクラスである。

 もちろん、移住者もこの状況を知らなかったわけではないだろうが、もうひとつの問題は、住んでみて初めてわかる物価にある。沖縄には物価が安いイメージがあるかもしれないが、総務省の「平成25年平均消費者物価地域差指数」によると、全国主要都市の平均を100とすると沖縄県那覇市は101.2と、全国平均と比べて高い。

 また、本土の都市部のように交通インフラが整備されていないため、沖縄では車が必需品となる。車を所有すれば駐車場代やガソリン代など固定の維持費がかかり、車そのものも輸送コストを考えると本土より割高になるケースが多い。

 さらに、海沿いの地域では塩害の問題もある。エアコンの室外機や給湯器など、屋外に設置する設備機器は割高な塩害対策製品を購入しなければならないのだ。「低賃金でも、ぜいたくしなければ暮らしていけるだろう」と甘く考える人が多いが、実際の生活は想像以上に苦しくなることが予想される。

 ◆移住者と地元住民の間でトラブルも

 それに加えて、一筋縄ではいかないのが地元住民との人間関係だ。「戦後の復興とともに本土の人たちが沖縄でビジネスを始めたのですが、地元住民をだまして土地を奪うなどのトラブルが多く発生しました。また、昔は東京の店などで『沖縄の人はお断り』といった差別的な扱いもあったため、地元住民のなかには本土の人を嫌っている人もいます」(阿部氏)

 このため、地元住民のなかには、本土の人に部屋を貸さないアパートのオーナーや就職の面接を断る経営者など、露骨に嫌悪感を表す人も少なからず存在するという。もちろん、そんな人ばかりではないが、歴史的な経緯や文化の違いから、移住者と地元住民の間でトラブルになることもあるようだ。

 自然に囲まれてスローライフを満喫するどころか、生活苦に陥った上に人間関係のストレスに悩まされることにもなりかねない。「移住者の9割は、近くに美しい海がある生活に憧れて沖縄に移住しますが、だいたい半年ほどで海に近づかなくなります。どれだけ魅力を感じていたとしても、3年もたてば見慣れてしまい、飽きてしまう人がほとんどです」(同)

 もちろん、地方移住の対象は沖縄だけではないが、人気が高い一方で負の側面も存在することは覚えておいたほうがよさそうだ。
(11/20 ビジネスジャーナル)





【酔駄言】(☂☂☂>)☁:☂ 23>26>23℃/92>87>92%/50mm/0mh : 明け方の激しい雨で終日ウェット

 本文に書かれた沖縄移住生活の厳しさは、そのとおりだと思うが約2割の人は居残って、沖縄で生活を続けているのも事実。身近にも移住10年以上のヤマトンチューが多い。例えば鉄道エッセイストの「ゆたかはじめ」さんは、転勤の那覇高裁判事から帰京し最高裁判事を定年退職した後、再び沖縄に移住してすでに30余年とか。

 陶芸教室の仲間でCOOPの組合書記長氏は20余年、仁王窯の窯主代理氏は沖縄に長期出張中に、窯主の娘と結婚しサラリーマンを辞め、陶工になって20余年。壺屋の窯元で修行をし独立したヤマトンチューも多い。彼らは生活の基盤を沖縄に置いて半ウチナンチューとして頑張っている。

 ゆたかさんは別格として例としてあげた諸氏は、職業を沖縄に求め定住した共通点がある。そう、沖縄に移住し成功するためには、生計の手段を沖縄で見つけられるかにかかっている。沖縄の労働環境は全国で最下位かも知れないが、収入に応じたつましい生活なら沖縄生活も成り立つ。

 一方、リタイヤ組にしても退職金や蓄財で、悠々ハッピーな沖縄移住も可能だろうし、またボクのようになけなしの預金と低年金でも、身の程に合わせてつましい生活も可能だ。現に6年間の生活費の平均は12万円でも生活ができている。病気や介護問題が課題で心配は尽きないが・・・

タグ:沖縄移住
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2016年11月20日

北大東島鉱山遺跡

北大東島鉱山遺跡 国の史跡に
島の燐鉱山遺跡は大正時代から終戦直後まで採掘していた


 国の文化審議会がきょう開かれ、北大東島の燐鉱山遺跡が新たに国の史跡に指定されることが決まりました。

 北大東島の燐鉱山遺跡は農作物に使う化学肥料の原料とされた燐鉱石を大正時代から終戦直後まで採掘していた鉱山遺跡です。当時、国内でも最大規模の燐鉱石の採掘所だったことから、日本の近代農業を支えた燐鉱産業の歴史を知る上でも学術的に価値が高いと評価されました。

 県の平敷昭人教育長は「大変うれしいことで、今後、北大東村などと連携を図りながら、適切な保存・管理に努めていきたい」とコメントしています。県内の遺跡や歴史的な建造物が国の史跡に指定されるのはこれで40件目となります。
(11/20 RBCニュース)


 ◆北大東島ウィキペディア




【酔駄言】☁:☂ 24>28>25℃/92>84>90%/1mm : 夜来のミストが日中も続きウェットな一日で、壺屋陶器市に出かけるためにはモラルがダウン。終日パソコンに向かってHPの総仕上げ。数ヶ月来のJR北海道「廃駅/1人駅」を、ウィキペディアからコピペしてでっち上げた。

 JR北海道が自力で維持できないという路線が、先ごろ公表されたがすでに3路線を廃線に、さらに乗客0人駅の廃駅と乗客1人以下駅も明記している。それらの路線や通過駅のほとんどは乗ったことはないが、ただ1度だけ乗った石勝線の沿線風景が目に焼き付いている。

 北海道のローカル線沿線の寂れ方が印象に残っている。少子化に加えて峻厳な気候と風土による離農が相次ぎ、かっての開拓地では無人化・原野化が進み、JR線に並行する道路網の整備に伴うモータりりゼーションが、人々の移動を鉄道から自動車に取って代わられた。

 国鉄が民営化されJRになったおりにも、不採算路線の廃線・廃駅があったし、JRになってからも閑散ローカル線の減便が相次いだ。甚だしいのは通学のための朝晩1往復という路線が多い。現在通学中の高校生が卒業すると、通学生が0になる駅も廃駅にすると言う。

 そんな路線や駅が全国のローカル線に多く、それらを廃線にしバスに転換すると言うが、鉄道と道路を管轄する国交省の交通政策が招いた失政ともとも言えそうだ。たしかに朝晩しかなく数kmも駅間がある鉄道より、並行する国道などのバスのほうが、便数も多くこまめにバス停があり便利だ。

 しかし、離農が進み大規模農場化が進む北海道の僻地で、広大な農業や酪農でお隣さんまで数kmという、農家の子どもらは家から鉄道駅やバス停まで、自転車や自家用車で通っているが積雪期は苦労をするだろうなぁ。彼・彼女らは汽車通の高校を卒業したら駅がなくなるかも知れない・・・


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2016年11月19日

「小夏日より」の花々

小夏日よりの花々
今は秋?春?それとも夏?
ヒカンザクラ狂い咲き オオムラサキシキブは秋演出



(左)陽気に誘われ狂い咲きしたヒカンザクラ         (右)実を紫色に染めて秋を演出するオオムラサキシキブ

 「小夏日和」に花の世界も戸惑っている。ヒカンザクラが狂い咲きし、オオムラサキシキブは着実に実を紫色に染め、秋を演出している。

 名護城周辺では、このところの陽気に誘われ数本のヒカンザクラが咲き出した。市民らは「えっ!サクラが咲いている」と驚き、狂い咲きに「春を迎えたかのよう」と笑顔を見せていた。

 花は半開きに下向きに咲く。寒の頃、緋(ひ)色に咲くから緋寒桜。ヒガンザクラと間違うため、カンヒザクラとも。1月下旬頃満開になる。

 一方、オオムラサキシキブは、実を美しく紫色に染めてきた。これを「紫式部」に例え名が付いた。だが「源氏物語」には見られない。  6月頃に枝先にたくさんの淡紫色の花を咲かす。気品漂う花だ。房総半島から沖縄にかけて分布。台湾、朝鮮半島にも生育する。

 サクラはバラ科、ムラサキシキブはクマツヅラ科。
(11/14 琉球新報)





【酔駄言】☁:☂ 21>28>25℃/78>81>87% 0mm/0mh : 終日の曇雨天、気象台の雨量計は0だがミストで湿っぽい、日中の28℃/81%ではエアコンなしでは耐えられない。今夜は熱帯夜で87%だからエアコン入れっぱなしで寝よう。今は秋?春?それとも夏?

 あすは壺屋陶器組合の陶器まつりが本番だが、今日と似たり寄ったりのミスト天気らしい。昨日の病院内の廊下トンビと院外の処方薬局の往復で、脚に疲れが残っていて、祭りの会場の壺屋小学校まで行けないかも? 毎年の期待しているカームスーブ(瓷勝負)を見たいけど・・・


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2016年11月18日

陶器まつりニュース

陶器まつりニュース
「壺屋陶器まつり」が17日から那覇市で始まりました。


 壺屋陶器まつり」は300年以上の歴史を持つ壺屋焼の魅力を、広く知ってもらい普段の生活に取り入れてもらおうと毎年開かれています。

 会場の壺屋小学校には県内各地から25の窯元が集まり、伝統的な壺屋焼をはじめ海をイメージしたマリンブルーの器やハイビスカスが描かれた皿など、沖縄ならではの新しいデザインも並んでいます。

 また、アクセサリーの販売ブースでは壺屋焼をあしらった、ネックレスやピアスなど珍しい商品も扱っていて、女性客を中心に人気を集めていました。

 まつりでは壺屋焼が通常より2割ほど安く販売されていて、訪れた人たちは直接手に取りながら買い物を楽しんでいました。

 「壺屋陶器まつり」は今月20日まで那覇市の壺屋小学校で開かれていて、最終日には陶工たちが与えられたテーマにそって作品を仕上げる早さや出来栄えを競う、「カーミスーブ」という催しも行われます。
(11/17 RBCテレビ)





【酔駄言】☀>☀;☁>☁ 21>29>25℃/76>70>78% 0mm/40m : 残暑と湿気、明日からは曇天

 連日の通院、朝1の予約は厳しいなぁ。朝ルーチンのコーヒーとネット新聞を読むため、6時にアラームで起きたが外は真っ暗。空が明るんできたのは7時前だった。眼科に9時の予約で15分前には受付ということで、食器も洗わずに呼んだタクシーに飛び乗った。

 なんで眼科? 肺の薬に目が霞む副作用がありうる。どうやらPCモニタの字が読みづらくなってきたと、昨日の診察で訴えたところ今日の眼科再診となった。先月の退院前に処方する薬の副作用を心配して、目の現状を診察してカルテに記録を残した。

 診察の結果はヒドイもので左が緑内障で半失明。緑内障は治らない・直せないとのこで絶望。右目は白内障があるが矯正して0.8。しかし右目ばかりに頼っているとやがて・・・ 今回の再診では視力は落ちていないが白内障の治療を(現状維持)をすることになった。

 そして内科に廻り眼科の結果を受けて6種の薬の内、吸入薬の1つを中止することになった。今夏来の夏バテで落ちた体力から発症した肺の感染症と、帯状疱疹(本日にて快癒)や薬の副作用などなど、かっての健康優良児(幼・小・中11年皆勤)も、一度に老化が襲って息も絶えだえで情けない。


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2016年11月17日

壺屋陶器祭りはじまる






【酔駄言】☀>☁>☁ 21>26>23℃/78>67>72% 0mm/30mh : 徐々に湿度が上がってきて下降気味

 壺屋陶器組合の陶器まつりが今日からはじまった。しかし、今日は病院の再診日で残念ながら行けなかった。まぁ、本番は20(日)で陶器の展示販売の品数も、取り置きが多彩に並ぶだろううし最後は安売りも? イベントの華はカーミスーブ(瓷勝負)という、陶工が紅白に分かれて若手・中堅・窯主クラスが、リレーで課題の器をロクロ挽きする。器を成形する時間と仕上がりで勝負が決まる。

 職歴1〜4年の若手の3組は小皿を数枚、5〜15年の中堅3組は大小のマカイ(椀)で、15年以上のベテランや窯元が壺などの大物を成形する。とくにアンカーの窯元勝負は30〜50年の伝統工芸士が、3升の贈答用泡盛由瓶(ゆしびん)の大物壺を、底まで肘をギリギリに突っ込み成形するのは見ごたえがある。

 ある窯元では全国的な華道流派の全国大会を、沖縄で開催されたときの引き出物千個もの5合嘉瓶を、1週間で寸分も狂いなしにロクロを引いたのを見た。これが壺屋の陶器職人の技術的職能であり、彼らは陶「芸」家ではなく『陶工』としての誇りを抱いている。成形から絵付けまですべて手仕事で規格の食器を仕上げている。

 したがって壺屋陶器組合の陶器市は芸術品の陶器でなく、日用食器が数多く山積にされていて数百円から、高くてもせいぜい1万円台で売られており、庶民にも客用や晴れ日の祝い膳用として、5〜6客揃いで贖うことができるのだ。これが壺屋の陶器所の伝統であり陶工の手仕事なのだ。


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2016年11月16日

美ら海ジンベエ繁殖へ

美ら海ジンベエ繁殖へ
「美ら海」世界初に挑戦 ジンベエザメ繁殖目指す


ジンベエザメの雌1匹を水槽から海上のいけすに移す準備をする飼育係 15日朝、沖縄美ら海水族館(同水族館提供)

 海洋博公園の沖縄美ら海水族館が、水族館では世界で初めてとなるジンベエザメの繁殖に向けて新たな試みを始めた。

 15日、展示飼育されている3匹のジンベエザメのうち、雌1匹を水槽から本部町沖の海上いけすに移動。雌1匹を別の場所に移すことで、残った雄1匹と雌1匹の繁殖を目指す。現在、水槽で同時に見ることができるジンベエザメは3匹から2匹になった。

 水族館によると、移動した雌の全長は7.7メートルで、水槽から搬出した個体としては最大級。海上いけすで飼育を続けるという。
(11/16 琉球新報)





【酔駄言】☀☀ 23>26>23℃/76>66>72% 0mm/50mh : 湿度低く爽やかな秋日

 ジンベイザメは10年ほど前に大阪の海遊館で見たことがある。平日にも関わらず小学生の団体で超満員、水槽のず~と後ろから子供らの頭越しにチラッと。美ら海水族館は行ったことがないけど、テレビのニュースで見ると海遊館より、水槽も大きく観覧席も見やすいようだ。

 それでも見るたびに感じるが観覧客が非常に多い。テレビのニュースは週末や祝祭日の話題が多いこともあろうが、それにしても異常な人出でとてもじゃないが行く気が起こらない。沖縄観光の1番のスポットらしいがちょっと敬遠したい人混みだなぁ・・・

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2016年11月15日

アカバナァーがジカ熱に有効

アカバナァーがジカ熱に有効
ジカ熱感染を抑える効果 沖縄花木から抽出エキス


沖縄三大名花の一つ、サンダンカ

沖縄三大名花の一つ、ホウオウボク

・沖縄自生の植物にジカ熱感染を抑える効果があることが分かった
・大学発ベンチャー企業がウイルス治療に役立つ「天然資源」を研究。
・感染予防の健康食品を開発。将来的に治療薬にもつなげたい考え


 長崎大発のベンチャー企業で、沖縄県うるま市に研究拠点を持つAVSS(エービス、長崎市、小林信之代表)は、沖縄三大名花のサンダンカやホウオウボクの葉から抽出したエキスに、ジカ熱を発症させるジカウイルスの感染を抑える効果があることを突き止めた。

 感染予防が期待され、同社は健康食品の開発に取り組んでいる。将来的には効果のある成分を特定し、治療薬の創出にもつなげたい考えだ。
(11/11 沖縄タイムス)





(酔駄言)☀:☁ 25>27>24℃/78>84>76% 0mm/35mh : 熱帯夜で昨日今日エアコンON

 本編のジカ熱は日本で流行しなかったので、ほとんど関心がなかったが記事に添えられた、アカバナーの写真に惹かれて転載した。沖縄三大名花の内2つも掲載されていた。ホウオウボクはマンションの横にも咲いていて身近だが、サンダンカは聞いたことも見たこともない。

 三大名花の残るもう一つの花はなんだろう? 多分、沖縄県の花に定められているデイゴだろう。デイゴは身近には咲いていなくて、図書館や病院のある与儀公園に数本植わっていて、たまに見る機会がある程度だ。沖縄では年中赤い花が咲いていて、み〜んなアカバナーと言ってるようだ。


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2016年11月14日

市場通せんべろ横丁

市場通せんべろ横丁
盛況だけど酔うほどに課題も

那覇市の牧志第一公設市場かいわいで今、千円でべろべろになるまで酔えると話題の「せんべろ酒場」が熱い。アルコール数杯と料理が楽しめ、お小遣いが減ったサラリーマンや庶民には心強い味方。

 マチグヮーの飲み屋で隣り合った同士で意気投合し、地元客や観光客の交流の場にもなっている。一方で、市場内のトイレ不足や騒音問題などの課題も。

 赤いちょうちんがともり始めた11月初旬の午後5時ごろ、せんべろ酒場が軒を連ねる那覇市松尾の市場周辺を訪ねた。すでに、あちこちで「乾杯」が始まっており、両側に酒場が並ぶ細い路地は、立ち飲み客であふれていた。

 せんべろブームの火付け役となった店「足立屋」は昨年10月にオープンした。今では他店も含め約10件に増え、せんべろ酒場の激戦区だ。同店マネジャーの大村雅志さん(33)は「地元客と触れ合いたい観光客も訪れる。常連客も多く、朝から訪れる人もいる」と笑顔。

 早速、せんべろを注文すると、酒などのドリンク3杯と串カツ4本のセットが出てきた。隣席にいた夫婦(豊見城市)に話し掛けると、「市場で買い物をして、そのまま飲めるのがいい」「5千円あればいっぱいはしごできる」と声を弾ませた。

 一方、にぎやかさの裏に、課題もある。40代男性は「酔客でごった返し、道が通れないこともある」と不満顔だ。酔った客が発する大声による騒音やトイレ問題などへの不満をまくし立てた。

 マチグヮーを元気にしようと、イベント企画や出店希望者の相談に乗っている「なは市場振興会」の新里俊一理事長(49)は「客のモラルの問題。粋な飲み方をしてほしい」と要望を出しつつ「客が市場内を回遊するようになり、相互にいい効果が出てくれたら」と期待した。
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 トイレ提供店に謝礼4000〜6000円、立ち飲み屋など「せんべろ酒場」の中にはトイレなしの店も多く、立ち小便などが問題になっている。対策として、那覇市ではトイレを提供してくれる店舗の開拓に力を入れている。

 水洗トイレを条件に、大便器が月額6千円、小便器は4千円の「謝礼金」がある。トイレなし店に配布する「トイレマップ」も作成中という。市なはまちなか振興課の担当者は「特に夜間、トイレを提供してくれる店舗を増やしたい」と説明。周辺にある24時間営業の大型店舗にも協力を呼び掛けている。
(11/12 沖縄タイムス)





【酔駄言】☀ 22>29>25℃/80>70>80% 0mm/40mh : 9月残暑なみの気温と湿度でエアコンON。こんな宵には手近な立ち呑み屋で生ビールと串かつがエゝなぁ・・・ 串かつといえば大阪の新世界ジャンジャン横丁。那覇での串揚げと大阪の串かつとは一緒のもんかいなぁ?

 移住6年にして未だに大阪風の串かつは食っていない。そもそも那覇には串カツ屋を見かけたことがない。1度「串」の店に入ったら串焼きだった。串揚げなら串かつだろうと思うがなぁ。揚げたての熱々の串かつを共用のソースバットに、ドブっと浸けて(2度浸け禁止)て食う旨さ。

 牧志公設市場近辺のせんべろ横丁では、出張ビジネスマン相手の串(揚)かつ屋ができているらしい。そんな立ち呑み縄のれんを知らなかったウチナンチューも、11/11の立ち呑み(||||)の賑わいに誘われて、ヤマトンチューと肩を接して和やかにせんべろしているらしい。

 移住してから外呑みは居酒屋しか経験していない。それもゲストハウス仲間のヤマトンチューらと。ウチナンチューとは町民会の会議後の懇親会の流れで、2次会に行ったが底抜けの呑兵衛らの鯨飲にはまいった。以来、陶芸道場の仲間が時折り誘い出してくれるが・・・


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2016年11月13日

花化粧 トックリキワタ

花化粧 トックリキワタ
「酔っ払いの木」ピンク色の花を咲かすトックリキワタ

 沖縄県内各地でトックリキワタの花が咲き、人々の目を楽しませている。10日、浦添市大平の国道330号にあるトックリキワタが鮮やかなピンク色の花を咲かせ、歩きながら楽しむ人や写真を撮影している人の姿が見られた。。(11/11 琉球新報)

 原産地はブラジル、アルゼンチン。成長すると木の幹が膨らみ、酔っ払いの腹のように見えることから原産地では「酔っ払いの木」とも呼ばれている。以前、通りの近くに勤めていたという男性は「よく知っているよ。わたぶーの木でしょう」。ちなみに花言葉は「偉大・崇高・繊細」など。(2015/11/12 過去ブログ)


             ◆トックリキワタのことは、去年もブログに書いています


【酔駄言】☀☀ 21>27>24℃/72>63>72% 0mm/50mh : 陽射しは強いが爽やかな秋日

 去年の今頃はトックリキワタの写真を撮りに、電チャリで与儀公園南の与儀小学校まででかけた。今では与儀公園のスーパーや図書館、赤十字病院まで歩く元気がない。病院まではワンコイン/ワンメーターのタクシーを利用している。

 先週の土曜に銀行や床屋を廻って、焼物博物館ややちむん通り祭りにも、そして翌日曜もやちむん通り祭りと、結構な距離をよろめきながら歩いたが、息あがりはそうでもなかったが脚がトボ徒步。入院中の2週間のリハビリで、かなり歩けるようになったがまだ回復途上だなぁ・・


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2016年11月12日

受け継ぐ伝統「壺屋焼」

受け継ぐ伝統「壺屋焼」
伝統を継承しながら、新たな可能性に挑戦する老舗窯元

 昔ながらの街並みや登り窯が残るやちむんの町・那覇市壺屋。この地に根をはり、伝統を大切にしながらも、革新的なやちむんに挑戦する老舗があります。壺屋で6代続く窯元「育陶園」です。

・以下の画像と記事は「放映映像」を補足掲載された本文で、 放映された映像の動画は記事サイトのトップでどうぞ;
(以下、放映映像の補足記事)
     

 伝統的な唐草線彫の器や現代の名工である先代から、技法を受け継いだシーサーなどが並ぶ本店のほか、「楽しい朝」をテーマに、20代の女性をターゲットにした、かわいいらしいやちむんが並ぶ「guma guwa」、「時を味わう」をテーマに、30代から40代の男性をターゲットにしたモダンなテイストのやちむんが並ぶkamany」、3つのブランドショップを展開しています。
 そのきっかけとは

     

 (育陶園を統括する)高江洲若菜さん「かわいいやちむんとか、自分たち世代が使いたいやちむんをつくりたいと思ったのが最初で、若い職人さんたちがいて彼らの表現の場になればいいなというのと、たくさんの技法がある壺屋焼をどうやったら見やすく表現できるかなと考えたら(ブランドを)分けるっていうことでしたね。」
 若い感性が光るやちむんですが、ちゃんと壺屋の伝統がベースにあります。

     

 例えば、こちら(上左)のコーヒーカップ。デザインは斬新ですが、壺屋の伝統的な「線彫」という技法が駆使されています。また、こちら(上右)の柄は、(伝統的な)縁起の良い文様とされる「菊文」をモチーフにしています。
 コンセプトもターゲットも異なる3つのお店ですが、共通して大切にしていることがあります。それは、「暮らしに寄り添い、時代に合わせたやちむんをつくっていく」ということ。

 高江洲さん「自分たちが残るためにもその時代に時代に必要とされるものを、ちゃんと見極めて作っていくっていうのが大切なのかなと思っていますし、壺屋焼自体がそうやって300年以上も続いてきたんだなという風に、過去(歴史)を振り返っても思いますね。」
 330年以上続く壺屋焼の歴史。それは苦難の歴史でもありました。戦前は、本土で大量生産された磁器によって追い込まれ、沖縄戦では県民の生活そのものが破壊されました。しかし「戦後の復興は壺屋から」と言われるように、占領したアメリカ軍は、壺屋の職人を集め、戦後の県民生活に必要となる皿などを作らせました。
 戦後復興に尽力した職人らはまた、アメリカ人向けの陶器をつくるなど、時代の逆境にも柔軟に対応し、その時々の暮らしに合ったやちむんを作り続けることで、壺屋焼の伝統を繋いできました。

     

 新しいデザインは、若手のスタッフを中心に、もっと使いやすく、どんなデザインがあったら面白いか、時には、売り上げなどを分析しながら、意見をぶつけあい生み出していきます。
 高江洲さん「作家ものとは違うので何名かの職人で仕上げるために仕上げやすいようなデザインあとは使う人がこれを使ったら楽しいなと思えるようなデザインこの2つのバランスを心掛けてやっています!

     

 育陶園七代目・高江洲尚平さん「もちろん仕事にストイックに真面目にっていうのはもちろんなんですけど、自分たちが楽しいと思えるような意識しながらやってるかなって思います。」
 こうして生まれたデザインは、海外でも注目を浴びています。去年、イタリアのミラノで開催された世界的デザインの祭典、「ミラノサローネ」で、現代の暮らしのなかに取り入れやすいモダンな工芸品100品目に選出されたのです。

 高江洲さん「どんどん沖縄の景色って変わっていく中で、この壺屋のなかでやきものを作り続けてるっていうのは、そういう景色を残していくことにつながっていくのかなという風に思っていて、壺屋焼、壺屋をキーワードに壺屋がもっと面白くなるようなことをしていきたいなと思っています。」
(11月11日 QABテレビ)





【酔駄言】☀ 21>26>22℃/66>62>67% 0mm/45mh : 爽やかな秋日だが外出は我慢で静養

 本編の育陶園レポート放送は見ていないが、ネットの映像を見つけて視られた。その動画をダウンロードできたり、YouTubeのようにブログに埋め込めたらよいのだが、Flash動画はどちらもできないようになっている。フリーソフトでダウンロードはできるが、ソフトが過重で削除してしまった。

 育陶園(陶芸道場)には移住当初から4年間通って、放映画面に登場する高江洲若菜統括(6代目の長女)や、7代目の尚平(長男)後継窯主は、道場の指導者でもあり顔なじみだ。身近に接して指導を受けたり工房で親しく話をして、若き育陶園の将来を担う才能であることがわかった。

 薪焼成登り窯が煙公害で禁止されたのち、壺屋に残ってガス釜に転換した「陶器所」10余の窯元は、日用食器を手造りで、寸法どおりに寸分の違いなく数多く成形し、下絵無しで手書きや彫刻刀で絵付けをしている。あくまで陶器職人でありながらも若手の感性は、新しい形や絵付け・彩色の器にも挑戦している。


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2016年11月11日

石西礁湖の半分以上が死滅

石西礁湖の半分以上が死滅
国内最大サンゴ礁の56.1%が死滅、97%が白化

 環境省那覇自然環境事務所は9日、石垣島と西表島の間にある国内最大のサンゴ礁「石西礁湖」で9月〜10月に実施した調査結果について、調査35地点のうち97%で白化現象が見られ、そのうち5割を超えるサンゴが死滅していると発表した。

 調査は石西礁湖内の水深2メートルから7メートルの35地点で実施。「全体が死亡した割合」は56・1%で半数以上が死滅していた。「全体が完全に白化している群体の割合」23・1%、「一部白化・一部死亡、全体的に色が薄い群体」17・2%で、調査地点の97%で白化を確認した。

 7月〜8月の前回調査では平均白化率は89・6%で、今回、さらに白化が進んでいることが判明。同事務所は原因について「6月に入ってから海水温が30度を超え、9月上旬まで高い状態が続いていたのが影響した」としている。

 沖縄気象台によると、6〜8月の八重山地方周辺の平均海面水温は30・1度と、気象衛星で観測を開始した82年以降で最高となった。ことし春に終息したエルニーニョ現象や地球温暖化の影響を受け、沖縄周辺海域の海水温も高い状態が続いたとしている。
(11/10 沖縄タイムス)

                    ◆「白化」の海に記者が潜った



 西表島西側海域で多くのサンゴが白化し、大規模被害の兆しが表れている。リーフ内のサンゴは、青、ピンク、黄、白などに変色し、異様なほど美しく見えた。西表島で長年ダイビングガイドをする矢野維幾(これちか)さん(62)は「高水温で苦しめられたサンゴの末期。最後の力を振り絞って輝いているようだ」。白化したサンゴの多くは約2週間で藻が付いて黒ずみ、死ぬという。

 島西側の白浜、網取、船浮湾内のサンゴ礁は、8月から次々に白化したという。3日の水温は約31度。浅瀬のサンゴはほとんどが白化し、水深約10メートルのリーフ斜面は雪が降り積もったように白かった。枝サンゴに群れるデバスズメダイは、すみかがなくなった後、どこに行くのだろうか−。

 記録的な高海水温で、石西礁湖などのサンゴが「大規模白化の恐れ」と報じられたのは7月下旬。県内各地でその後、多くのサンゴが白化しているという。「沖縄の宝」サンゴ礁の大きなダメージは、貴重な生態系を奪うのみならず、観光業にも影響を及ぼす可能性もある
(9/12 沖縄タイムス)





【酔駄言】☀ 22>24>22℃/74>64>64% 0mm/35mh : 晴れて湿度は下がったが温度上がらず

 今日は11月11日で "1111" と1並びの日。今日はなんの日でググるとたくさんの記念日が。語呂合わせや形から連想するケースが多いし、この日にはじまった記念日も多いようだ。||||の形にちなんだ立ち飲みの日やきりたんぽの日、箸の日とかもやしの日や煙突の日なんてのもある。

 しかし、ネットやSNSでは中国の「独身の日」の話題しかない。1人x4人という言うことらしいが中国では、最近は独身者目当てのネット通販の日として、アリババなどがバーゲンセールをしていて、1時間で5千億円とか爆売れしたらしい。日本でもやってくれればボクも買ったかも・・・


posted by まな兵衛 at 12:10| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月10日

沖縄鉄軌道のモデル

沖縄鉄軌道のモデル
ベルギー北海沿岸斜断トラムが見本にならないか


 昨日ブログに書いた沖縄の鉄道ルート案、那覇〜名護間の西海岸をLRT(ライトレール:トラム)がよい。海外でモデルになるトラムがないかと探したら、ベルギーの北海沿岸トラムが距離的(60km)にピッタリ。

 トラムといえば今朝のネット報道に、ロンドン南郊クロイドンで転覆事故のニュース。テニスの聖地ウインブルゾンからクロイドンに至る路面電車で、急カーブを速度超過で曲がろうとして脱線横転したらしい。



 トラムは都市市街地の路面電車で、近距離都市間を結ぶLRT(ライトレール)と、同じ軌道/車体構造(低床)であるが線路は道路だけでなく、専用軌道も走る例が多いのが特徴だ。日本では江ノ島電鉄や広島の厳島線がある。

 鉄(軌)道のほうが速度が早く乗車人数も多いが、なんと言っても建設コストが3分の1で施設できる。地下鉄や新交通やモノレールは鉄軌道より高くつく。沖縄の例では那覇〜名護間の約50〜60kmなら、トラム/LRTで充分だ。

 しかも途中駅や終点からの分岐や延伸も、道路を併用軌道の路面電車で結べるので一体乗り入れ運用が可能だ。例えば西海岸ルートだと宜野湾から沖縄市/うるま市や、名護から美ら海や那覇から糸満などの延伸も容易だ。


 ●沖縄にトラムを走らせる会
 ●内外の路面電車ストリートビュー
 ●日本の路面電車マップ
 ●世界の路面電車マップ


北海沿岸トラム


クロイドンのトラム





【酔駄言】☁ 21>25>23℃/83>76>74% 0mm/5mh : 時折りミストで湿気が高い

 沖縄には終戦間際まで鉄道が走っていた。沖縄県鉄道というが県営ではな「軽便」と呼ばれた。那覇〜嘉手納・糸満・与那原の3ルートがあって、戦中からは旅客輸送を禁じられ軍用鉄道になっていた。沖縄戦のカンポー(艦砲射撃)や地上戦で、完膚なきまで完全に破壊されてしまった。

 戦後の米軍統治アメリカ世(ユー)時に、米軍政府は嘉手納線の復旧のため、レール資材を用意したらしいが、沖縄民政府は消極的だったとかで進まず、結局は軍用ハイウェー1号線(那覇軍港〜嘉手納)の、建設が優先されてしまった。日本復帰後の現在の国道58号線である。

 この時に有力県民からなる沖縄民政府が、GOしていれば那覇〜嘉手納間の鉄道が再建されていただろうに。そのルートは那覇軍港〜浦添補給キャプ〜普天間飛行場〜読谷滑走路〜嘉手納飛行場と、旧民鉄「軽便」ルートで沖縄鉄軌道の西海岸ルートである。

 民政府の弱腰のお陰で沖縄には鉄道が途絶え、モノレールが建設されるまで沖縄には長らく鉄道がなかった。そして軍用ハイウェーに代表されるように、幹線・視線の道路網が建設されモータリゼーション社会となってしまった。那覇〜浦添・宜野湾間のR58は九州1の渋滞道路である。

posted by まな兵衛 at 13:17| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月09日

鉄軌道案ルート図見当たらず

鉄軌道案ルート図見当たらず
ルート案見やすくHP改善 鉄軌道プロセス委


 県内の鉄軌道導入への検討の進め方を議論する沖縄鉄軌道プロセス運営委員会(委員長・屋井鉄雄東京工業大大学院教授)の第6回会議が8日午前、県庁で開かれ、現在検討されている七つのルート案が分かりやすく表示されるようホームページを改善したことが県から報告された。(11/8 琉球新報電子版)

 鉄道フアンとしては沖縄県に鉄道が敷かれるのは大歓迎だ。移住以来6年間にわたり敷設ルート案を関心を持って見守ってきた。しかし、内外の異見が錯綜しルート案は二転三転どころでなく七転八倒? のごとく曲折している。

 どうやら県民重視の人口周密ルートと、観光客重視のリゾートルートを中心に競合しているようだ。私のような未だ観光客意識を残している身にとっては、もちろん西海岸リゾートルートで見晴らし重視のLRT(ライトレール)が好ましい。

 そして前掲の新聞報道に掲載されている、7つのルート案には大いに関心があるが、掲載画像が不鮮明でもっと詳しい元の画像を探した。記事にある沖縄鉄軌道プロセス運営委員会や、沖縄県の沖縄鉄軌道の計画案づくりWEBサイトなどを検索した。

 ところがグーグルなどで1時間以上も検索したが、掲載したという見やすくHP改善ページを探し当てず、各ルートの詳細を知ることができなかった。仕方なく記事の画像を拡大や色調補正したりしたがはっきりしない。

 ボクはネット検索が日常生活の大半を占めているが、目的のサイトをヒットできないことはめったにない。大見出しに『見やすくHP改善』と掲げるなら、本文に該当するHPのURLを明記すべきだと思うしだいだ。





【酔駄言】(☂>)☁ 21>23>22℃/90>68>64% 1mm/0mh : 明け方の雨で湿度90%、日照なく気温上がらず

 今日の午後はNHKのアメリカ大統領線の報道に釘付け、3時過ぎにまさかのトランプと大勢が判明しテレビOff。それから仕掛け中のJR北海道の廃線/廃駅コンテンツに取り掛かった。乗ったことがない路線ばかりだが、Wikiの駅舎の写真があるうちにHPにして遺しておこう。

 北海道には仕事x1(札幌)とプライベートx3に行っただけ。長男一家が帯広に住んでいたので夫婦旅行x3は、舞鶴〜小樽の夜間フェリーx2は高速で富良野経由で帯広へ。残る1回は飛行機で札幌の雪まつりとビール園。札幌〜帯広間は石勝線の特急で冬景色を満喫しながら。  真冬の札幌も素晴らしい体験だったし、帯広では息子のアパートに泊まらず近郊の、十勝温泉ホテルに一泊。翌日に息子の軽ワゴン(後輪スパイクタイヤ)で、凍結した道路を50km/hで帯広原野を延々ドライブ。どこまでも真っ直ぐな碁盤目の農地を走り回った。

 雪の北海道は関西からの旅行者にとっては、初めての経験で珍しい雪景色は楽しかったが、住んでいる道民にとっては公私に渡り厄介者。個人事業者の息子は真冬は仕事がなく雪下ろしのアルバイト。結局は1シーズンで帰阪し「北海道の冬は人の住む所やない」、「大阪はぬくい(温かい)なぁ」と・・・

 JR北の廃線/廃駅シリーズで廃駅候補や、一人以下の乗車駅の写真をじっくり見ると、原野にポツリとわびしく佇む老化した貨車改造駅に、1台の自転車が止めてある景色をよく見る。駅まで自転車で来て沿線の大きな街の、高校に通学する学生がいるのだろう。

 彼/彼女らとっては唯一の通学手段の鉄道、たった一人の乗降客とはいえど廃駅となると、さらに数km も先の駅まで行かねばならない。真冬に家から駅までの除雪はしてあるのか? 開拓農地の過疎化が進み交通手段のない、通学/通院の脚が失われるのは営業係数だけで廃止はできない問題だ。


タグ:沖縄鉄軌道
posted by まな兵衛 at 13:02| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする