2015年08月15日

壺屋戦後史(5)壷屋地区の戦後形成史

第二章 壷屋焼の歴史 近代編
 戦後から現代」 − (5)壷屋地区の戦後形成史
 (倉成多郎( 那覇市立壺屋焼物博物館主任学芸員)著 ボーダー新書刊より)


 終戦直後は那覇市内への一般住民の立ち入りは制限されていた。1945(S20)年11月の先遣隊の壺屋帰還から那覇の復興がはじまった。先遣隊の陶工に続き家族らも次々に戻り、その後には陶工や家族とも関係ない人々が紛れ込んで、壺屋地区の人口は急激に膨張していった。

 48年頃までは陶器生産は順調だったが、50年の沖縄・日本間の民間貿易解禁により、安価な日本製陶磁器の流入で、壺屋の陶器生産は壊滅的な打撃を受けた。しかし、壺屋地区への人々の流入は止まらない。もはや陶器生産地への流入ではなく、那覇唯一の人口集中地として都市形成がはじまっていた。

 壺屋丘陵周辺部のガーブ川など低湿地に、自然発生的に闇市が形成されるのは時間の問題であった。やがて闇市は公設市場や商店街に発展し、ホテルや映画館なども次々に建てられ、国際通りの開通とともに一大歓楽街として那覇市の中心街へ発展してきた。(本文より)


 闇市がはじまった開南から現国際通りのむつみ橋にかけて流れていた、「ガーブ(低湿地)川」は度々氾濫を繰り返した。河川上や両岸の仮設店舗の流失や周辺部への浸水が相次ぎ、市による暗渠化とその上への水上店舗が実現し、同時に公設市場への商店集約化がなされた。一方、壺屋は本来の静けさを取り戻し、昔ながらの面影を今に残す陶芸の里として現在に至っている。





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 ガーブ川の低湿地は沖縄各地の窯が壺屋に統合され、周辺の陶土を根こそぎ浚ったからか? その泥質地を挟んだ初の日米市街地戦(壺屋村落)の銃砲戦があったという。嘉数・シュガーローフの一大地上戦を撃破した米軍は、東方のハーフムーン高地を避け南方の壺屋ルートに進んだ。

 安里川を渡り牧志から壺屋を経由し、南から首里城の日本軍総司令部に迫る作戦。ところが牧志・壺屋丘陵に点在する亀甲墓に布陣する日本軍に苦戦し、やっと壺屋を通り抜けた途端に思わぬ敵と遭遇。それがガーブ川低湿・泥濘地で戦車も進めなかったと、米軍の戦後記録に書いてあったとのこと。 (-20:50)


posted by まな兵衛 at 12:18| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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